あたまーくびーかたーうでーゆび

旅の記録、レビュウ、頭のなか、文字に残します。

そうだ大学生だ。インドへゆこう。少しとんで12日目

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2017.5.29
ジャイプルニューデリー→北京→日本

とうとう短い旅の一区切りがつく。5月17日に関空から発ち18日から滞在したインドとも今夜でお別れだ。

 

約二週間、最終日の今日がもしかしたら一番辛く、一番衝撃的で、最後にインドをみた、と言えるのかもしれない。

 

 


今朝は6:00発のデリー行きの列車に乗るために4:30頃に起床した。昨晩の天気予報で明日の天気が雷雨のマークになっているのを見て、インドに来る前の1カ月天気予測でも最終日だけ雷雨予報になっていたことを思いだした。インドの天気予報の予測力に感嘆していた反面、雨季でもないし、毎日こんなに暑いんだから言うてそんなに降らないでしょう、と嘗めていた部分もあった。


そして今朝。起きて始めに気がついたのは風の音だった。ホテルの部屋のドアの小さな隙間から風が入ってきてヒューヒューと音をたてていた。外では風の音と共に、何かが飛ばされてるようなもの音や、落ちる音が聞こえていた。

 

そうしてようやく、もしかしたら天気予報が当たっているかもしれない、と不安になり始め、いざ荷物を持って外に出てみると雷は音はなくとも間なく光り続け、風に雨に、まるで嵐のようだった。


何が起きるか分からないから、と歩いて20分もかからない駅に行くのを、列車の出発時刻の75分前に出よう、と心配性の友人が計画していた予定も完全に予想を超えてきた天候の悪化の壁にぶち当たってしまった。


あまりに早い時刻と天候のことでオートリキシャーやタクシーを呼べるのか心配だったが、少し仲良くなったフロントマンが何本か連絡を入れどうにか手配してくれた。そうしてわたしたちはインドに来て初めてのタクシーに乗り込み5:10頃に駅に到着した。


ジャイプルの駅はホーム数もそこまで多くはなく、掲示板もいたってシンプルで、そこからは何の問題もなく、乗車することができた。乗車する前にクッキーとチャイを買って朝食にした。


車内は想像していた通り冷房が効きすぎていて、早起きであったにも関わらず眠ることができなかった。


今更ではあったが、持参していた沢木耕太郎深夜特急インド·ネパール篇を読み始めたりした。


乗車時間は4時間30分と、行きよりもいくらか短かった。が、絶対に行きたくない、行くつもりもないと思っていた列車のトイレに行かざるを得ない状況が来た。

 

いやいやながら、ティッシュをもってトイレに入る。トイレは和式のようなスタイルでティッシュはなくインド式だと排泄後は水で洗う。(もちろんウォシュレットのような文明的なやつではなく、小さい桶のようなものを用いて。)ちょうどかがんだ時にお尻のほうがドアに向くような内装になっていて、それに倣ってわたしも用を済ました。そして、ポケットからティッシュを取り出そうとしていたまさにその時、背後のドアが開いた。

 

もちろん、わたしは自分の衣服は身につけていなかったし、入ってきたのが男性だったのと、完全に目もあってしまって、なぜかは分からないが反射的に、英語で、Oh my gosh ! と叫んだ。叫んだが、悪いのはあちらの男性ではなく、もちろんわたしではないと思った。

 

しかし、後から確認してみると、わたしの閉めた鍵のような噛み合い式のロックは実はロックではなく、ドアのぶのようなもので外側と連動していたようで、鍵はそれとは別に上の方に付いていたのだった。わたしの過ちであることは承知であったが、とにかくそんなアホな失敗はもう何年もしたことがなく、しかもインドで、(むしろインドでよかったかもしれない)とにかく恥ずかしくて、やり場がなかった。


席に戻ると、車内に座っている男性は全員、目があった人に見えるし、どうも解決しようのない気持ちは、とにかく忘れるしかなかった。ただ、ここがインドで、わたしは日本人で、この事件が今後どうなるわけでもない、ということだけがわたしを救った。


あとはデリーまでの道を、電車に揺られるしかできなかった。


どこで降りるべきか分からず、一駅降り過ごしてしまったが、隣のおじさんが助けてくれた。駅から次の目的地であるチベット難民地区までの行き方まで教えてもらうことができた。


ホームに降りると、今まで降りてきた土地とは少し違う雰囲気を感じた。

 

多分ここは、観光客が来るような場所ではない。今までインドで降り立ってきた場所よりも、 汚く、冷たく、ひとりだったなら恐ろしくも感じられたと思う。しかし、インドの人にとってはこれが日常なのかもしれない。


インドでは、電車のホームに住んでいるのか、待っているのか分からない人々が床に座ったり寝たりしている。その駅にも同じ環境があった。

 

階段に差し掛かる手前でお母さんらしき人と赤ちゃんが寝ていた。赤ちゃんは体こそ赤ちゃんらしくしていたが、顔は目にも鼻にも、そして口にもハエがびっしり集っていた。とてもショックだった。

 

その子が生きていたのか、死んでいたのかは、分からなかったがとにかく衝撃的で、正直に言うと最初に湧き上がった感情は、可哀想とか同情よりも、気持ち悪い、と思ってしまったことだった。

 

わたしは彼女たちに何もしなかったし、誰も何もしなかった。私たちは、ただ見たり、見なかったりして通り過ぎた。あの子のお母さんも生きているのかも分からなかった。


その出来事のせいか、早起きだったせいか、そのあとチベット難民地区に行くまでのリキシャーでは乗り物酔いをして吐きそうだった


15分か20分ほどで、デリーにあるチベット難民地区に着いた。リキシャーを降りたあとも気持ちは優れないまま街に向かった。その途中にも、床に横たわる人々や犬がちゃんと呼吸しているのか固執して見てしまう。


歩道橋の上にいた犬は一匹息をしていないようで、やり場のない感情に襲われる。


悲しみはただの一時的な反射感情。悲しみの根底を探ってもそこには何もない。横たわっていることに変わりなく、息をしているか、していないかだけなのに、どこに問題があるのだろうかと定期的に巡る疑問がまた頭に居座る。

チベット難民地区はネットで見て想像していた街よりも静かで、暗くて、迷路のようだった。迷っているわけではないのに、迷っているような気分になってしまう。そして、思っていたよりもインド人をよく見かけた。


光のある方へ、迷路のような路地の中を抜けると川沿いにでた。チベット難民よりも簡単な造りのトタンの家が並んでいて、インド人が住んでいるようだった。


川沿いの風景はとてものどかだった。一面に白なすびの畑が広がり、川はゆったりと流れ、そこを牛たちが連なって渡っていた。緑は湿度を含んだ深い緑で全体的に霧のような靄がかかっているように見えた。


わたしが座っていたその街は、中国政府に信仰も文化も命も奪われ逃げてきた人々の街で、更にインドから迫害されたようなインド人が共に住み着いているような状況の街であったから、それを本当にのどかと言ってしまっていいのか、とも思った。


それでもチベットの街に来たならチベットに浸りたいと思いチベット料理の店を探したが、なぜか全ての店が閉まっていた。あまりに閉まっているので、そもそも商売などは存在しない街なのかと思い聞いてみると、今日はストライキの日らしい。

 

チベットでは今でも中国政府の暴力的な支配と制圧が続いていて、中国政府に奪われる命、また焼身自殺のように自ら命を落とす人々がいる。そうした人々に向けるものだと言っているようだった。もしかしたらストライキではなく、祈りの日だったのかもしれない。


仕方なくチベット料理は諦めて近くのメトロの駅に向かい、そこからニューデリー駅周辺で昼食をとることにした。


地下に行くとセキュリティチェックの前に大量の人がごった返していた。かなりの時間をかけ、威圧的な態度で何かを言いながら、バッグの中身や身体検査を行なっていた。

 

女性の多くはヒジャブを身に纏っていて、イスラム教徒が多いようだった。"過激派"と呼ばれるイスラム教の一部の人々によるテロを予防するためなのだろうが、ここまで厳しく差別的に徹底して検査していたら宗教格差はさらに大きくなるのではないかと思った。

 

ホームに降りて電車に乗った時は、駅に来てから1時間ほど経っていた。

 

今日の1日にあったこと、見たこと、そして帰国というひと旅の終わりを目の前にしたことなどが相まって、わたしは究極に疲れていた。疲れていたし、ずっと気分終わるさを引きずっていた。

 

予定外にチベット料理を食べ損ねたことで、ニューデリー駅周辺でチベット料理を取ろうかと計画したりもしたが、友人のひとりが風邪をこじらせていたこともあり、早めに空港に向かうことにした。


ニューデリー駅の外にある一番近い簡素なレストランで、最後の昼食をとることにした。せっかくの最後のインド料理だからとカレーを選んだ。チキンカレーにロティのセットだった。


美味しかったような気もするが、味わうことよりも、骨つきチキンをほぐしながらさっきの赤ちゃんのことを思い出したりしていた。それに合わせて、インドの決していいの匂いとは言えない生ものとオイルと腐敗臭のような匂いを敏感に感じ取りすぎ、嗚咽が込み上げてきていた。

私は一応、仏教徒だが、そんなに信仰心はあつくない。そんな私にヒンドゥー教の信仰を理解することは難しいが、もしもわたしがインドに住むことになったなら、彼らのように菜食主義になるだろうと思った日だった。つまりそれは信仰心からくるものではなく、わたしが日本で生まれ、不自由なく暮らしてきた日本人であるからこそ、ここでは人間や生き物の死、その肉体をあまりに近くに感じすぎて命がわたしの喉を通らなくなるからだ。

 

胃の中の気持ち悪さを残したまま、またニューデリー駅に戻っていき、インドで一番クリーンなメトロ、空港行きに乗った。

 

ニューデリーの空港、トランジットの中国の北京空港、そして日本の関西国際空港と、どんどんクリーンになるグラデーションを通過して帰ってきた。それに並んで自分の緊張感は緩み、安心感が増すのだった。


また去年のタイ・ラオスベトナムの旅のように、自分がクリーン大国ニッポンの若者なのだ、ということを思い知らされて小さなショックを受けた。何かに守られ、生ぬるく成長してきたことに対して妙な嫌悪感がある。

2017.530

夜に関空に着き、深夜に自宅へとたどり着く。

 

長いとも短いとも言えない旅であった。最後の思い出の影響で未だに滅入っている。楽しいことはほとんどなく、考えてみれば、猛暑、排気ガスや腐敗臭、刺激物ばかりの食事、不衛生なベッド、うざいインド人とまあまあ辛い毎日だった。それでも順応して生きること、知らない世界に身を置くことがスリルのある経験で、生きている心地もする。

とても現実的な話になると、明日は1限から学校なのだ。
またここはここで辛い日々を生きる生活が始まる。

また時々インドで出会った人や街に思いを馳せながら、頭の中で旅を続けよう。