あたまーくびーかたーうでーゆび

旅の記録、レビュウ、頭のなか、文字に残します。

好きな文字(言葉)と嫌いな文字(言葉)

 

この数日間、自分の発する言葉や、目に入る文字などを意識的に見ていると、案外好みがあることに気づく。 

 

例えば、先週の大学の授業内で述べた「脛」について。いや、脛に限った話ではなく、「頸」も然り。とにかく、身体の部位を表す文字で、このひらがなの「く」が三つ並んでいる文字が嫌いだ。

 

 

しかもこの感情は、わたしの精神部分から来ているというよりも、どちらかと言えば、わたしの身体が反応しているような感覚である。近いもので言うと、黒板ややかんを爪で引っ掻いた時のような感じである。

 

この「脛」や「頸」がわたしの体に属しているかと思うと身体のバランスが保てなくなる。真っ直ぐであるはずの骨がガクガクと曲がり、しかもそれが集団的に存在していると思うと、ゾクゾクしてきて本当に気持ちが悪い。

 

そんなわけで、わたしはこの二つの文字が嫌いだ。 

 

好きな文字もある。

 

前述した通り、挙げていけばきりなくあるように思えるので、身体に関わる文字でいうと、拝む、という言葉の「拝」が好きだ。

 

先ほどの「脛」などに並んで、連続した「一」という文字から構成されているところは似ているが、これは全く違った感覚にある。

 

特に重要なのは、手偏ではない方の部首の最後の「一」である。わたしはそこにとてつもないセンスを感じる。センスの塊といってもいい。午後の午や羊とは違うぞ。そんなにイージーでレギュラーな存在ではないのだぞ。と、その最後の「一」が語りかけてくる。

 

実際に「拝」の字を綴る時にも、最後の「一」に差し掛かると、広い畳の静かな座敷間で、ゆっくりと、そして厳かに手を合わせる様子が想像できる。

 

日本における、手を合わせる、という行為の荘厳さや厳格さを「手」という文字を用いてうまく表現している、そういったコンセプトの面でも「拝」は非常に優れている。

 

わたしのお気に入りの一文字である。 

 

 余談になるが、前回の授業で先生が言っていた翡翠(ヒスイ)の「翠」について、考えた時間があった。

 

確かに、言われてみるととても美しい文字のひとつである。雰囲気としては「拝」に似ているようにも感じられる。

 

今はそう思えるのだが、なぜか即座にそう素直になれない自分がいて、それがどうしてなのかを考えていた。

 

それは、わたしが幼い頃に、翡翠(ヒスイ)の色に対して不満を持っていたことが理由なのではないかと思っている。

 

カワセミはあんなにも美しいキラキラとしたエメラルドグリーン色なのに、どうして、(石の)翡翠はこうも濁ってパッとしないのだろう。と、そんな具合だったと思う。

 

今なら分かる、あの濁りの美しさ、クリアでさっぱりとした色ではなく、どこか惑いのあるような、あの色!  

 

文字ひとつとっても、幼い頃の記憶やほんの少しの形の違いによって様々な嗜好が見え隠れするものだと気づかなかった。

 

おそらく、今後もしばらくの間、文字に触れる度に自分の好みや、それを通した記憶に思考を巡らすことになるだろう。 

 

 

2017.4.24